
10月18日 初めてのモンゴル
シベリア鉄道(中ロ)二日目は、朝、サイン・シャンダから、夜スフバートル(モンゴル)まで走る。
(夜中、ロシアの国境を越えます。)
以前、こんなことを聞いたことがある・・・・。
モンゴルの空は綺麗すぎて人工衛星まで見える、と。
ほんまかいな。
それを確かめたいとモンゴルの夜空を見ることを楽しみにしていた。
しかし10月17日の深夜にモンゴルに入ったが、
夜、車両から降りられず、満天の夜空とやらを拝めずに朝を迎えた。
思えば、このシベリア鉄道の旅行計画を考えるに至った経緯としては、
2005年、2006年の2年間、屋久島と奄美大島の間にある「宝島」という島に一人で行き、そこで本当に綺麗な空を眺めたことがあった。
宝島の場所は下記を参照ください。


その時の星の綺麗さを忘れられずに、今回の旅行としては、星が綺麗で何もしなくていい旅行、
ということを最初のテーマとして今回の旅行先を候補にした。
話がそれるが、
その2006年の宝島に行ったときの思い出がたくさんある。
当時、私は20代前半で、島でキャンプをすることにはまっていて、
宝島という人口100名ちょっとの島へ一人キャンプに行った。
だが、島には誰もキャンパーがおらず、
半径1キロ以内には誰も人が居ない、そんな島生活を送ることになり、孤独で死にそうになっていた。
そこに たまたまその時期に24時間テレビの放送に来ていた
日本テレビのクルーと意気投合して、
「抵抗せずにいうことを聞いてくれる島民役」
というヤラセ役で 4日間、24時間テレビのお手伝いをし、テレビに映り、しっかりとサライを歌ったという体験をした。
そんな島の思い出がある。
※ちなみに、麦わらの帽子が私です・・・。(もう12年前)
※ちなみに、宝島に眠る財宝を探すという企画であった。
2日目の夜、
キャンプ場に戻り、空を眺めていたら、
星空が綺麗すぎて、一人酒を飲み、酔っ払い、走り回っていたところ、
1mの深さの穴に落ち、足の骨を折るという怪我をした。
人生初の骨折であった。
ただ、痛み止めを飲み、その2日後の収録で過酷な現場でバタバタ倒れるその中で、へーへー言いながら働いていると、
その行動力から、「キミ、テレビ業界に向いているからうちに来なよ」と
某制作会社のDから誘われた…そんな過去である。
※写真は、足の骨を折ったあたり(上)(左)の場所と島の風景


そんな話はおいといて、
話はモンゴルに戻るとしよう。
AM6:00
サイン・シャンダ(SAIN-SHIANDA)という駅に着く。
朝、日が昇っていないなか、目が覚め、開かない車両のなかから写真を撮る。
車内は石炭でガンガン温めているが、車両の連結部分だけは寒い。
おそらくマイナス5度くらいの寒さだろうと思う。
ああー、これがモンゴルかー!と、北京から900km前後の駅でモンゴルを感じる。
一人ブツブツ独り言を言いながら1時間ほど外をただ眺める。
そうしていると周りの人間も起きて、「ビューリフォー」だなんだ言っていた。
ただ、モンゴルに来て思う。
モンゴル草原とはただそれだけで、何もない。
途中から、遠くに山が見えると、
陸地にいることを忘れ、砂丘じゃないのか、海辺ではないかと思い始める。
(それほど景色に酔えるものである。ってか一時期砂丘マニアであった。)
そうしているうちに、同部屋のユハニも起き、
朝からギターを弾き出す。
その光景にもなれ、ただ自分は本を読む。
そこで、ユハニが
「その1968って本は歴史書かい?1968年って世界で政治的にも色々とあった年でその日本の本かい?」と興味深そうに聞いてきたので、そうだと答えるも、その後に続く英語が出てこずあたふたする。
その読書の方は順調で、
昨日から300ページほど読み、だんだん自身の持っている時代感覚が鋭くなっていくのを感じていく。
AM9:00
ユハニが「わたしはコーヒーがアディクティットで、どうだい、一緒にブレークファーストしないかい?」と、
「addict」とはおそらく、宇多田ヒカルの曲のあのタイトルの単語か・・・・、「コーヒージャンキーなのね」とそれっぽい解釈をして、一緒に食事車に行く。
昨夜と異なり、食事車はモンゴル仕様の車両に変更になっていた。
食事のおばさんも、完全にモンゴリアンだった。
オーストラリアとイギリス、そしてこちら2名の計4名でブレークファーストを楽しむ。
ご飯は、とにかく味はしないが、不味いとまでは思わない、そんな味だった。
とにかく、自ら話を振らない私に対して周りは気をつかって、
「英語は少し話せるのかい?」
「OSAKAは雪が年にどれくらい降るんだい?」
「旅の計画はどうなっているんだい?」
「リトアニアに行って何をするんだい?」
と質問をしてくる。
しかしあまり綺麗に返せず、
しまいには、
「きみは・・・(英語が苦手なのはわかるが)実はロシア語が堪能なのかい?」と
彼らなりの まさかを期待する質問がこちらに来るも、残念ながら私は「NO」と返すしかなく、
笑顔で、「こいつ使えねーなー」的な顔をされた。
そうしているうちに
10:00
チョイル(CYOYR)という駅に到着。
(北京から1100km モスクワまであと6500km)
約26時間ぶりに車外に出ることが許され15分ほど周りの人間と一緒に車外へ。
昼のモンゴルは多少寒い程度で、日に照らされると暑く、
夜は、マイナス10度を越すらしいが、今はジャンパーを羽織れば十分な寒さである。
駅のホームには、売り子(というか派手な色合いのオバハン)がいて、
「ブーズ!ブーズ!」と叫んでいる。
あったかい餃子?を袋に入れて販売している。
周りの人は、うーん、どうしよう?と顔をしていたので、
代表して自分がそのボーズ(ブーズ?)を購入。
6個入りで日本円で80円。
おそらくケモノ系の肉を使っていることは間違いないくささ。
他の白人系には不人気であったが、
イノシシやヤギなどの臭い肉が好きな私にはたまらなく美味しく、
バクバクいただき、また車内へ。
(好きな人のためにレシピのリンクを貼っておきます)
※ちなみに、上の左の写真の銀色のポットの中に「ブーズ(ボーズ)」は保管されており、ホカホカである。
※腹を壊しても、そこは自己責任ってやつ。
そうして、読書、日記を書くなどを繰り返しながら、
まもなく(14時30分に)ウランバートルで下車するユハニはソワソワしだし、景色について色々と話してくるが、
朝から300km近くほぼ同じ、草原?地帯がただ続いている。
別れを前にユハニと何も話すことがなくなり、ただただ読書と景色を眺めるだけの数時間であったが、徐々に街並みが都会めいてきた。
畳2枚分くらいの場所に1日半一緒にいれば何か親しみとは異なる何か「連帯」などといった気持ちが湧いてくるが、それを語るほどの英語力が私にはなく、ただただその時をただただ待つのであった。
そして14時30分 列車はウランバートル(Ulanbator)に到着した。
最後に、ユハニが立ち上がり、
「なんだかんだでなんだかんだだけど、グッドラック!で良い旅を」と彼なりに気をつかい、
優しい英語で別れの挨拶をしてくれたが、それもわからずただ握手をし、「グッドラック」と手を握り返すだけで終わった。
その後、昨日いた面々の大半は下車し、
お別れを言おうと、自分もホームに降りたが、あっという間に皆が去っていった。
とても寂しいなと思う間もなく、ホームには
また新しい客が乗車待ちをしていたが、
これまでとは異なり、ほぼおっさんだらけで、
誰と一緒になるんだろう・・・と思っていたら
誰も自分と同部屋ではなく、またそれもそれで寂しさを感じるものであった。
(結局、その後も誰も同部屋になることはなく、モスクワまでその後ずっと一人であった。)
ところで、
ウランバートル(Ulanbator)は、モンゴルの首都であり、おそらく経済の中心地であるが、都市としてのサイズ感がとても小さい。
ランニングアプリを使い、測ってみたところ、
自分の乗っている列車は最速約70km前後で走っているが、
今朝の6時から14時までほぼ広大な草原しか目にしてていない。
つまりは、朝から500キロの間には、ほぼ家がなく、ウランバートル自体も
半径30km前後の規模の都市であり、そのほかには何もない。
なんなんだ、この国は?という印象である。
ここで自分の知識のなさに情けなさを感じる。
・そもそもモンゴル経済ってどうやって成り立っているのか?
・国の主要産業は何なのか?
・外国への依存度はどうなのか?
・GDPなどはどれくらいなのか?
・そもそも遊牧ってどうやって生計を立てているのか?
・いやもっといえばモンゴルの人口はどれくらいなのか?
※昔、モンゴルの人口密度は1人/㎢とどこかで聞いたことがある気がする。
モンゴルに訪れるまでは、
草原すごい、癒される、なんだかんだと思っていたが、
早朝から夕方まで同じ景色見せられたら、こっちも経済がどうか不安になるわ、
という気持ちである。
※この点については、次の日記にて、詳細を記そうと思う。
(帰国後、現在勉強中。知れば知るほど、モンゴルは奥が深い。)
また、
ゲルだかパオだか知らないけど、あのモンゴル式の家であるが、草原にあると思いきや、
街中にも突然ポツンとあり、日本でいう、段ボールハウス的な印象をこの旅行で感じたのであった。
中国が本気出したら、モンゴル自体併合できてしまうのでは?と心配もしてしまう。
※大変失礼であるが。
逆にいえば、
こんなクソ田舎のクソ広い国にチンギスハーンなり、フビライハーンなりが出てきたことはすごいと思う。
紀元前頃に馬で北京まで攻め入ってきた過去もあるので、万里の長城を作ったと聞くし、
九州まで船に乗って来たっていうけど、あなた方の国、もともと海ないやん、どうやって作ったん?と思うし・・・。
※たしか、現在の万里の長城は「明」の時代だったかな?に綺麗にしたもので、もともとは単なる「土塁」的なものだったと以前聞いたことがある。
そう、一人になってとうとう暇になってしまい、
色々と妄想を膨らませる今日この頃である。
さてさて、
食堂車に行き、(後述)
残っている中国元もかなり減らせたので、明日からロシアであーる。
今夜にはモンゴルーロシアの国境であーる。
ロシア国境がけっこうハードだったが、その話は次回にしよう。
【余談】
10年以上前に、大阪の茨木高校かどこかの高校の修学旅行でモンゴルへ行って、あの移動式の家で泊まったみたいな話をそこの卒業生から聞いたことがある。
何か教師とモンゴルに繋がりがあって、修学旅行でモンゴルに行ったという話をふと思い出した。
少し調べてみたら、当時の記事があった。
※ちなみに、この日記はネットワークが繋がらないながらもノートパソコンにはリアルタイムで日記は記録し、あとで追記したものである。
【旅行メモ】
◎飲食ができる駅について
・チョイル駅(中国元使えます。)
売り子が来るので、色々と購入可能。
ボーズは絶対食べた方がいい!
駅前に売店があるので、購入は可能(中国元も使える)小さな駅の売店しか見なかったが、駅の外に出れば何かあるだろう。
(wiki情報によるとレストランがあるらしい。)
・ズンハラ
停車時間が15分なのであまり見れず。
(次の日記にて書きます。)
◎モンゴルの食堂車について
中国ーロシア車については、2日の朝から晩まで食事がおそらくできる。メニューがあり、モンゴル料理からロシア料理までメニューは多い
・朝食
・夕食
・ビール
があり、味も価格もナイスな感じである。
下記は食事車両で食べた晩御飯である。(水餃子的なものを連続で食べる。)