· 

【4日目】ロシア1日目(後編) シベリアの歴史を感じてみる

10月19日 後半

 

前回、ついつい、昼間からウォッカを飲んでしまったと書いた。

けっこう酔った。

 

2時間ほど寝落ちし、20時頃、目がさめる。

 

途中、ジマ(JIMA)という駅で停車時に外に出るも、

ただただ寒かっただけだった。(景色が妙に綺麗である)

 

それはさておき、ロシアに入って、どうしても読まなくてはならない本があり、

夜を徹して読書した。

生きて帰ってきた男』(小熊英二 著 2015年 岩波新書)である。

 

 

第14回小林秀雄賞(2015年)を受賞した知る人ぞ知る本である。

 

シベリアと聞いて、皆様は何を思い浮かべるだろうか?

 

☆シベリア超特急

☆シベリア鉄道

☆シベリアンハスキー

などあるが、

 

第二次世界大戦の末期にソ連が攻めてきて、戦後

そのまま、シベリアに連れて行かれて労働をさせられた「シベリア抑留」を

ご存知だろうか。

 

私は、よく知らない。

しらずにシベリアに来た。

 

ただ、こういう機会ではないと知り得ることはないだろうと、

シベリア抑留についての本を持ってきた。

 

 

 

※帰国してからも何冊か本を読んだが、シベリア抑留の本は、本当にたくさん出ている。

 

シベリア抑留の歴史的事実とは・・・。

その抑留者がどこの地域に連れて行かれたのか? 何歳だったか? どういう立ち位置だったか?で、

個人の受ける体験は異なり、様々な歴史がある。

 

数年前にNHKの特番でシベリア拘留者の生活を取り上げた番組もあり概略は知っていた。

 その時は、本当にひどい体験が語られていた。

 

その時のNHKの90分に渡る番組は、

無料で「アーカイブス」として、今も一般公開しているので、

それを見ていただければ、シベリア抑留者がどうだったかはよくわかるだろう。

 

下記リンクを参照。

 

引き裂かれた歳月 証言記録 シベリア抑留」 

 

また、2007年に北海道に一人で旅行に行った際、

摩周湖?の近くで、2月のクソ寒いなか、半袖で

歩いてきたおっさんがおり、

 

「さすがに、シベリアで過ごしただけありますねー」と

 

その友人のおっさんが茶化していたのを見たことがあり、

シベリアって何しに行ったのだろうか?と多少10年前に疑問に思っていた。

(歴史としてはシベリア抑留を知っていたが、詳細は知らず。)

 

この本は、そんなシベリア抑留から帰ってきた人の話である。

 

著者である小熊英二さんが、著者の父親の出生から、

戦後、シベリアで過ごした生活、その後の日本での生活、

リタイアしたのちは、戦後補償の裁判に関わるところまでを

ヒアリングして記載した本である。

(改めて、書評としては書いてみたいが、物語として読むとめちゃくちゃ面白い)

(80を超える著者の父に、話をしてもらい、それを本人の類まれな文章力で作品にした本) 

 

 

シベリア抑留とは、この本の記述によるとこうである。

(あくまでこの本の内容が史実として、記載する)

 

1945年太平洋戦争末期に、ドイツを陥落させたソ連は、

満州国へと南下してきた。(満州国は今の北京あたりを含む日本領)

 

その後、日本は敗戦。

 

当時、満州には、関東軍(陸軍のひとつの部隊と思ってもらえたら) がおり、戦争末期には、

その関東軍の中の優秀な人材は、フィリピンに送られ、南方で戦った。

満州の兵士が減ったため、新たに兵士として、

日本各地から、新たに赤紙を出し、若者が満州に送った。(著者の父も当時20歳であった。)

 

当時の関東軍は、戦争末期とあり、完全に疲弊しており、

その中、ソ連軍がきたぞと、やばいぞ、と

言うている間に戦争が終わった。

 

そして、電車に乗せられ、

帰国できると思っていたら、そのままソ連軍に連れて行かれ、

シベリア地区に連れて行かれたらしい。

その後、シベリアで働かせられたというのが、

シベリア抑留である。

だいたいその期間が3年から長い人は10年ほどであった。

 

 

※前回(ブリヤート共和国に呼ばれた)のパラダイス山元のブログにも、シベリア抑留の話が出てくる。

 

「それにしても、私がロシアのことを知らなさすぎました。戦後、ソ連全土で50万人以上の日本人が捕虜になっています。

ここウラン・ウデには、ソ連軍がつくったラーゲリと呼ばれた強制収容所が23か所もありました。

抑留を余儀なくされた日本人捕虜が1250人以上もここで亡くなっています。日本人墓地もあちこちにあります。

しかし、逆の立場で考えると、抑留は単なる悲劇ではなく、「日本人には本当に感謝している」となるのです。

シベリア鉄道や道路の敷設も、バイカル湖の護岸工事も日本人が担ったものです。強制労働の記録を読むと、悲惨を極めていたことがよく理解できます。」

 

また、ソ連の衛星国と言われたモンゴルのウランバートルにも、

多くの日本人が連れて行かれたようである。(モンゴルを知るための60章参照)

 

当時、連れて行かれた理由としては「俘虜(捕虜)」である。

 

※捕虜とは、wikiの記載内容が極めて優れているので、そこを参照ください。

 ちなみに、俘虜(ふりょ)と捕虜(ほりょ)はほぼほぼ同じ意味であるが、

 攻め入った地域にいた人=俘虜、 捕まえた人=捕虜である。 

 

「捕虜ってなんですか?」

という方は、辞書などを調べてもらえたらと思うが、

戦争中に、投降した相手軍の兵士、と理解してもらえたらとおもう。

 

「捕虜って労働させてもいいんですか?」

賃金が支払われるなら、問題ないというのが原則である。(一部当時ソ連から出ていたらしい。ただし、この話は後述する。)

 

「シベリア抑留の労働は問題ないのか?」

その点については、国際法違反であり、戦争が終了したら捕虜は相手国に返すのが原則で

戦後になって捕虜として連れて行かれたのは、国際法上NGではあるが、

一説には、関東軍の判断で移動が行われ、日本政府には伝えられずに連れて行かれた。

 

そのシベリア抑留の指示を出したのは、

毎回この日記に名前の出てくる、弾圧といえばスターリン、

ソビエト連邦の当時の指導者スターリンである。

 

ただ、ひとつ、面白い話もある。

スターリンは太平洋戦争の後にシベリア抑留を指示したが、

 

戦争が終わる前に日本国内でも、ソ連に日本の兵を差し出す案はでていた。

 

1945年7月 

天皇の命令をうけ、近衛文麿らが作成した「和平交渉の要綱」には、

「ソ連へ兵を差し出し労働につかってください。」

「その代わりソ連に労務提供をするので、うまく和平交渉を連合国としてほしい」

という文書をソビエトに送付。

 

1945年8月29日

関東軍総司令部から、

「(内地への)帰還までの間におきましては、極力貴軍(ソビエト軍)の経営に協力するごとく

 (関東軍を)お使い願いたい」という「陳情書」を出していた。

 

その「陳情書」が出される直前である

1945年8月23日

スターリン名の極秘資料で、シベリア抑留が決定していた。

 

上記の話を(戦争末期の)時系列を追って書くとすれば、

ソ連軍の侵攻は、1945年8月9日

日本の終戦日は、1945年8月15日であるが、

当時、(内地での)終戦を知らずに1945年の9月頭まで、

ソ連軍は満州において侵攻をすすめた。

 

その中で、

7月に近衛文麿が、敗戦を意識し、ソ連に要望を出し、

8月9日にソ連が満州に攻め込み

8月15日終戦

8月23日(終戦の1週間後)にはシベリア抑留をスターリンが決めたというのは、

すごくタイムリーに事を進めていることがわかる。

 

また、7月にきちっと交渉していれば、戦争の死者をより少なくできたのでは?

ということが、改めて感じさせるものである。

 

 

 

では、シベリア抑留の目的は何か?

それは、戦死者を多く出したソビエトの復興のためであった。

1940年のソ連の人口は 1億9597万人

1946年のソ連の人口は 1億7390万人と、おおよそ2000万人近い男性が死んでいる。

(ドイツとの戦争で相当ソ連も追い込まれていた。) 

 

日本の戦没者は310万人であったので、いかにソ連が戦死者を出したかはわかる。

 

※以前の日記に書いたが、

1930年代にスターリンは粛清の名の下で、宗教弾圧を行い、大量の虐殺を実施していたが、

1940年代には、解いたとも言われており、ソ連の窮した状況と、時代の悲惨さがわかるものである。

 

シベリアは、19世紀末から、ロシア(ソ連)にとっての最重要開発地区で、

囚人をシベリアに流刑し、強制労働させて開発を進めた。

(かつて若きレーニンも流刑でシベリアで働かされた過去がある。)

 

第二次世界大戦後のシベリアには、

戦争の捕虜(ドイツ人も当時いたらしい)含め、1000万人が戦後のシベリアで強制労働を

強いられたわけであった。(日本人は60万人ほど。)

 

以前の日記に1904年には、モスクワからウラジオストークまでシベリア鉄道が

繋がったという話を書いたが、その開発の裏には、たくさんの強制労働があったという訳である。

 

 

話は、当時のシベリア抑留までの話に戻り、

 

 

当時満州にいた関東軍の兵士を全て送り込もうとする中、

それでもソ連側が要求する捕虜の人数には達しておらず、

困った関東軍は、当時満州にいた、元兵士(もう引退した30歳〜40歳のおじさん)」

に嘘をつき、電車に載せ、シベリアに送った。(らしい)

 

彼らも併せて、60万人の日本人がシベリアへ送られた。

 

作中に出てくる著者の父は、チタという、バイカル湖からほど近い町へ送り込まれ、

その地区の開発を行った。(バイカル湖より東にあり、今回の鉄道の路線には入っていなかった。)

 

※シベリア抑留は、シベリア全域に送られ、各現地で開発を行ったようである。

 以前書いた(バム鉄道)の開発ももしかしたら彼らが寄与しているかもしれないが、

 調べていないのでよくわからない。

 

※この旅行では、リトアニアやラトヴィアにて、ソ連の迫害博物館に行ったが、

 戦後、国家として組み込まれた彼らも相当数シベリアには送り込まれていた

  とのことであった。

 

作中では、ソ連人が酷かったとか、暴力を振るわれたなどのことはかいておらず、

シベリアで亡くなった日本人の大半は、

1.寒さ

2. 飢え

 (戦前の軍隊の上下関係をそのままシベリアでも継続する将校がおり、下っ端は飢えて死んだ)

とのことである。6万人前後が、シベリアで亡くなった。

 

また、シベリア拘留で過酷なものの一つは、

 NHKでも取り上げられていた民主運動であった。

シベリア抑留から三年ほど経ち、ある程度戦後の持ち直しができた時期からである。

 

シベリア抑留は広範囲におり、彼らは自ら発行する新聞によって

シベリア中の抑留者の情報を共有したそうであるが

抑留者の中では、「民主化した人間から日本に帰れるらしい」という話がながれ、

我こそは、なんとかして帰りたい!と足の引っ張り合いを行ったらしい。

 

そこで日本人の間では、

日本に帰るためには、

「スターリン主義を賛美」が条件ということ、

 「共産主義を日本に普及する人になること」の噂がながれ、

 

われさきは、と心を入れ替えたのごとく、「スターリン万歳」を唱え、

また同時に、他者には先を越されまいと、

「あいつはスパイですよ」と日本人捕虜をソ連に売るなどして、

足の引っ張り合いをとにかく続けた。

 

この本ではソ連サイドとしては、

「スターリン主義を賛美したものから日本に返す」という話はなく、

順々に日本に返す予定であったが、日本人側が勝手に推測してしたらしい。(その真偽は不明である。)

 

ただ、NHKでは、ソ連がそう仕向けたと放送していた。(たしか。)

 

要するに、我こそは早く日本に帰りたい!と日本人同士が争う相当熾烈な社会が、1948年~1955年前後にあったとのことである。

 

しかし、その後、はれて日本に帰れた彼らに幸せなどなかった。

シベリアからの帰国後、抑留者に待っていたのは、厳しい日本社会であった。

 

当時の日本は、冷戦時代で、ソ連の色に染まった人に対して、ひどく差別をした。

就職も、また地域社会においても様々な差別を一生背負っていくことになった。

(この辺りは、NHKでもきちんと述べられている。)

 

※20歳前後に、満州に送られた人たちは、何の罪もなくシベリアに送られ、

 約1割が死亡し、その後、青春を異国の地で労働に明け暮れ、

 帰国後一生差別されるという悲惨な人生を送ることになった。約50万人である。

  戦争が生んだ新たな差別であった。

 

シベリアを訪れる際に、このことを知れてよかったと思う。

前述したが、ソ連が過去にどういうことを行ったのか?

そのことを、この旅行中に、この本をこのタイミングで読んだことが大きい。

 

このように、シベリアと日本はどこか切り離されないものであり、

シベリア鉄道は、何もない、風景だけが綺麗な電車だけではない、

そう、その時に思った。

 

こうして、夜更かしの2時半頃までかかり、読了した。

電車はただただ西へ向かっていった。

 

 

【追記】

先ほど捕虜への給与の話であるが、

調べると、基本は、捕虜へ支払われる賃金は、

捕虜所属国(つまりは日本)が負担するようである。

その支払いはどうなったのか?

 

wikiによれば、

 

国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた[43]

 

とあり、これまで個々には支払いには応じない姿勢をしめしていた。

 

そもそも、日本政府の姿勢としては、

戦争の被害は、「国民が等しく受忍」すべきものとして、

一貫して払わないのが日本政府の基本姿勢である。

(原爆被害者や、戦死した軍人に対しても補償は一切しない。)

 

もし払うとしても、「軍人恩給制度」という「見舞い」「慰労」としてのみ払うのみである。

(つまりは、あくまで例外的に、「情けで出してあげるよ」という姿勢である。)

 

それを証明するかのごとく、

シベリア抑留の賃金の支払いに関する裁判は過去4例ほど行われたが、

全て原告の敗訴で終わっている。

 

世界の原則で言えば、

1948年に戦後世界各国の捕虜のルールを決めた「ジュネーブ条約」が世界各国で結ばれた。

その条約には、捕虜への補償のルールがが決められたが、そのルールに則れば、

 

「使役国(ソ連)より発行された労働証明書を所属国(日本)に提出することで、捕虜への賃金の支払いが行われると決められていた。」(日本は1953年に批准している)

防衛省のHPに条約の詳細が載っているので、みてください。

 

そのルールを元に、

1981年に抑留者(全国抑留者補償協議会=全抑協)原告62名による支払いを巡る裁判が行われた。

しかし、判決では上記のジュネーブ条約の批准以前(大半が1950年前後)に

原告の大半が帰国した事を理由に、ジュネーブ条約にある条件に本件は該当しないとして敗訴した。

 

それでも抑留者たちは活動を続け、

その後、全抑協は、91年にゴルバチョフが来日した際に、労働証明書の発行を求め、ロシアは発行した。

→それにより、ジュネーブ条約における、捕虜の使役国と所属国がはっきり 証明されたことになる。

 

さらに、93年にその後の大統領であるエリツィンが、シベリア抑留の歴史的事実に対し日本に謝罪し、

シベリア抑留が、ロシアにとっても非人道的な戦争の記憶として認めた。

→だからと言ってロシアが補償をしたか?と言われれば何もない。 

 

また、上で述べたように、ソ連崩壊後、様々な資料が公開された。

その中に、日本政府が、戦時中に、ソ連に労働力を差し出すからよろしく、という「陳情書」等も発見され、

抑留者の気持ちを逆撫でする形になり、労働証明書と、日本政府の当時の姿勢を理由に裁判を続けた。

しかし、最高裁まで争われたが、これは司法の判断ではないと敗訴した。

 

その後、日本政府は、抑留者へ見舞金として支払いをした。

   

 

2000年以降の最近のシベリア抑留者の起こした裁判については、wikiより転載する。

 

シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年(平成21年)10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された

 

詳細は下記である。(参照

朝日新聞によると、この訴訟の原告は、関東近畿などに住む元日本軍将兵らで、平均年齢は85歳。原告らは、終戦後にシベリアなどへ連行され強制労働を課された。その後、冷戦終結後にロシアで発見された資料に基づき、大本営参謀関東軍が、旧ソ連に対し日本軍将兵の抑留と強制連行を認めたとし、国による遺棄行為や安全配慮義務違反があったと主張していた。 一方、国側は「過去の訴訟で解決済みの問題を蒸し返しているに過ぎない」と主張し、請求を退けるよう求めていた。

毎日新聞によると、判決では、原告側が「関東軍総司令部からソ連への役務提供の申し出」と指摘していた「ワシレフスキー元帥に対する報告」について、「食料や防寒について配慮するよう希望しており、将兵を引き渡すためのものではない」とし、遺棄行為が存在したとする証拠とは認めず、請求を退けた。

朝日新聞によると、一方で同地裁は、「シベリア抑留による被害は深刻且つ甚大だった」とし、2009年現在まで補償を定めた立法や予算措置が行われていないことに触れ、「政治的決断に待つべきもの」と指摘。原告団は「今後、速やかな政治的解決を求める」とコメントした。

毎日新聞によると、原告らは「年寄りは早く死ねという今日の判決は、国による完全な棄民政策だ」、「権利侵害を救済すべき司法の責務を放棄するもの」などと判決を厳しく批判しており、控訴する方針である。

 

つまりは、裁判所としては、政治的判断はしませんので、シベリア抑留の賃金支払い等を求める事は、筋違いだ、という判決である。(前回と同じ司法に委ねるべきではないという判断である。)

 

その後、裁判の影響はあったのであろう、(この裁判の翌年の2010年にまた政府は動いた)

日本では、遺族なりに、特別措置として支払いをするよう法律を作り、支払いをした。

 

旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年(平成22年)5月21日に本会議で可決。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される

 

というのが歴史的事実であるが、ここには二つの問題がある。

 

☆日本は一貫して、国内外問わず、戦争の補償は行わない。

 本によれば、シベリア抑留のときに行ったように、「特別措置法」だ、「特別基金」という形で、あくまで例外的にお支払いをしますよ、という形で行うもので、戦争は「国民が等しく受忍すべき

ものであるという姿勢を一貫して行っている。

 

☆外国人については除外

その対象者は、現日本国籍を持つものであり、当時、日本人として戦争を戦い、シベリアに送られたが、戦後、韓国人として生きる人たちは対象者ではなかった。

その後、その支払いを求めて著者のお父様は裁判を起こしている。

 

この二つの問題は、

今の従軍慰安婦の問題、徴用工の問題にも深く影響している。

 

日本政府は、「戦後の賠償ですべて終わっているでしょ」、というのが、一貫した姿勢であり、

真正面からこの個人の「補償」には向き合う気などない。

 

世論では、外国人が今更何言うてまんねん、などと言われているが、

日本でもそのような裁判は行われた過去はあるが、全て日本の司法では潰され、「特別措置」で解決している。

 

ただ、今回の徴用工の裁判は、外国の司法であり、日本は抗議しているが、

日本の政府や司法の常識が外国の常識かどうかは、わからないところである。

 

個人的な感想は置いとくとして、歴史から読み取れるものは上記のようである。

 

 

 

そんな感じで、ダラダラと書いたが、

 

一つ、イルクーツク(Irkutsk)を越えたあたりから、

俗に「シベリア鉄道の魔物」と個人的に読んでいる、

単調な白樺の木がただ続く風景に変わっていった。読み終えて疲れて眠った。

 

 (5日目に続く)